156 先行するトークンを照応するトークンとタイプに遡るトークン(Tokens that correspond to the preceding token and tokens that refer back to the type.) (20250510)

 前回話したように、照応は、先行詞と照応詞が、異なるタイプのトークンである場合と、同一タイプのトークンである場合(例えば、固有名のトークンが、先行するトークンに照応する場合)に区別できます。

 ところで、<すべての語のすべてのトークンは、最初にその語を言語の中に導入したとき(命名したり、定義したとき)トークンを照応し、さらにその照応の照応の…というように照応の連鎖があるというように、最初のトークンにまでさかのぼる照応の連鎖がある>と推定できると、前回書きました。それに基づいて、<そのような照応の連鎖を思い出すことができないトークン>を「最広義の照応関係」と名付けました。照応の連鎖はあるはずだが、それを思い出すことは出来ない場合です。しかし、その推定は正しかったのでしょうか。全てのトークンは、たとえそれを忘れていても、最初のトークンにまで遡る連鎖を持つのでしょうか。

 私たちが語「リンゴ」を使用するとき、そのトークンは、最初のトークンに遡れないどころか、一つ前の先行詞にも遡れません。そのトークンは、タイプ「リンゴ」のトークンとして発話されているだけであり、先行するトークンに照応していないように思われます。

 この場合、私たちは「リンゴ」の意味に基づいて、「リンゴ」を使用していると思っています。私が語「リンゴ」の意味を知っているとは、私が語「リンゴ」の使用法(つまり、「リンゴ」を含む多くの実質問答推論)を知っているということであり、語「リンゴ」の意味に基づいて、語「リンゴ」を使用するとは、それらの実質問答推論と両立可能な仕方で、「リンゴ」を使用することです。

 語の使用が、前の使用への照応によって行われるのではなく、その語の使用法という一般的規則に依拠して行われる場合があります。「リンゴ」の場合、例えば「リンゴは、丸くて赤くて甘い」という総称文が、「リンゴ」の使用法を表現していると考えることもできます。この総称文は、「もしあるものがリンゴならば、それは丸くて赤くて甘い」という条件文で言い換えられれ。さらに「あるものがリンゴである。ゆえに、それは丸くて赤くて甘い」という実質推論で言い換えられます。

このことは、語「リンゴ」の使用が、それ以前の使用の照応であるということと、どう関係しているのでしょうか。

 語の学習についてはこれまで何度も述べてきたことですが、「リンゴ」の語を学習するとき、「これはリンゴですか」と対象について問い、「はい、それはリンゴです」あるいは「いいえ」それはリンゴではありません」と答えることを学習し、新しい対象についても、この問いに自信をもって正しく答えられるようになった時、「リンゴ」という語の学習が修了したと言えます。まだ自信をもって正しく答えられない段階で、「これはリンゴですか」という問いに「はい、それはリンゴです」と答えようとするとき、この発話は、それ以前に別の対象について、「それはリンゴです」が正しい答えだと教わったときの、その「リンゴ」の用法に照応して、「それはリンゴです」と答えるのではないでしょうか。

 学習段階での「それはリンゴです」や「それはリンゴではありません」の中の「リンゴ」のトークンは、その前に正しい使用法を教わったときの「リンゴ」のトークンを照応しています。

 語「リンゴ」の学習は、対象リンゴの学習でもありますが、その学習は照応によって行われています。先行する「リンゴ」のトークンに照応して、それ表示対象<リンゴ>を表示します。 語を学習するということは、照応によって語(タイプ)と対象(クラス、種)の表示関係(指示関係)を学習するということです。語の学習が終了するとは、照応が不要になるということです。

 語の学習が修了した後での語の使用は、先行するトークンへの照応によって成立するのではありません。語「リンゴ」の学習後は、例えば上記の総称文を理解し受容し、これをもとに「リンゴ」と言う語を使用しているとしましょう。ここで、もしこの総称文「リンゴは、丸くて赤くて甘い」のトークンに依拠して「リンゴ」という語を使用しているとのだと仮定すると、その使用は、総称文のそのトークンに含まれる「リンゴ」のトークンに照応していることになります。しかし、この総称文に依拠しているとしても、この総称文の先行するトークンに依拠しているのではないと思います。なぜなら、そのようなトークンとして思い当たるものがないことがほとんどだからです。

 では、総称文「リンゴは丸くて、赤くて、甘い」のタイプとはなにでしょうか。この総称文は自明ですが、それはなぜ自明なのでしょうか。「リンゴ」の学習が終わったとき、わたしたちは、タイプ「リンゴ」を理解しているのですが、その理解を他者と共有しており、タイプ「リンゴ」の理解は、Stalnakerのいう「共有基盤」になっているのではないでしょうか。語彙の知識もまた「共有基盤」の一部と考えられるのではないでしょうか。

 全てのトークンが、最初のトークンにまで遡る「照応の連鎖」を持つのではなくて、多くのトークンは、「共有基盤」の中にあるタイプに遡ると考えてもよいかもしれません。

  タイプ「リンゴ」の理解について考察するために、次に共有基盤と照応の関係を考えたいと思います。  

(補足説明:通常論じられる「照応」は、ここで論じた語の学習段階での照応ではありません。通常の照応は、語の学習が終わった後の照応です(照応をこの二種類に区別することが出来そうです。)例えば「私は昨日リンゴを買ってきました。そのリンゴはなかなかおいしいです」というとき、「そのリンゴ」は、最初の「リンゴ」を照応しています。しかし、「そのリンゴ」という句が最初の「リンゴ」を照応しているのであって、語の学習段階の照応とは異なります。)

投稿者:

irieyukio

問答の哲学研究、ドイツ観念論研究、を専門にしています。 2019年3月に大阪大学を定年退職し、現在は名誉教授です。 香川県丸亀市生まれ、奈良市在住。